直江兼続がイケメンだったというのは本当?3つの書物から探ってみた
常山紀談
知性と誠実さを評価されることが多い直江兼続。
彼は容姿も優れていたといわれています。
この「兼続イケメン説」は本当なのでしょうか。
3つの書物から、この話の真偽を探ってみました。
イケメン説の発端は江戸時代の書物
兼続が生きた戦国時代の史料のなかには、彼がイケメンだと記録している書物はまだ見つかっていません。
しかし江戸時代の学者・湯浅常山(ゆあさじょうざん)が書いた『常山紀談』に、兼続イケメン説が登場しています。
『常山紀談』は戦国時代の武将にまつわるエピソード集です。
このなかで兼続は、「背が高くて、容姿は並ぶものがいないほどで、弁舌さわやかで大胆な人」と書かれています。
さらに幕末の志士・岡谷繁実(おかのやしげざね)が書いた『名将言行録』にも似た内容があります。
『名将言行録』は戦国武将や江戸時代の大名のエピソード集です。
ここでも兼続は「背が高くて、容姿は美しくて、言葉は明朗」と書かれています。
兼続は体格のいいスポーツマンタイプのイケメンだったようです。
『常山紀談』も『名将言行録』も、登場する人物が亡くなってからだいぶ後の時代に書かれています。これらふたつの書物では脚色がされている箇所も多いですし、信ぴょう性は低いかもしれません。
しかしどちらの作者もきちんと調査をして執筆しているのは確かですから、すべてが創作とはいえないでしょう。
幼いころからイケメン、中身もイケメン
兼続は5歳のころから主君・上杉景勝に仕えました。
幼くして景勝の側近になれたのは、景勝の母・仙桃院に才能を見いだされたからといわれています。
仙桃院はこのとき、兼続の容姿にも注目したようです。
江戸時代の軍学書『北越軍談』には次のような内容があります。
「仙桃院は容姿が美しい兼続を見て、将来大物になる器だと感じた」
兼続は幼少期からイケメンぶりを発揮していたんですね。
仙桃院は決して面食いだったわけではありません。
当時は、外見のよさも名将の素質のひとつと考えられていました。
軍を率いる大将は美しく立派なほうが、兵士もやる気が湧くというもの。
のちに兼続が景勝の右腕ともいうべき存在にまでなったことをみれば、仙桃院の見込みは正しかったわけです。
イケメンの兼続なら多くの女性を泣かせたのではと思われるかもしれません。
しかし兼続はとても誠実な人物なので、浮気や不倫のようなことはしませんでした。
側室を持つのが当然の時代に、妻は正室のお船の方(おせんのかた)ひとりしかいなかったんです。
兼続は見た目だけでなく中身もイケメンだったといえますね。
『常山紀談』と『名将言行録』は現代でも戦国武将の研究に欠かせない書物。
これらの影響によって兼続イケメン説が広まっていったと考えらます。
さらには『北越軍談』にも美男子ぶりが書かれていますし、兼続がイケメンだったのは本当のことといえそうです。
当時、外見が良いことは名将の条件でもありました。
兼続が知将などと評価されたのは、もしかするとイケメンだったことも理由なのかもしれません。