知恵で上杉家のために尽力した直江兼続の2つの功績
直江石堤
直江兼続は知恵を使って功績を残した人物です。
仕えていた上杉家の存続そして発展のために、さまざまな作戦や政策を考えました。
なかでもとくに大きな2つの実例をご紹介します。
上杉家を存続させる
1つめは、上杉家の後継者争いである御館(おたて)の乱で景勝を勝利させたことです。
兼続が立てた作戦のおかげで、上杉家はほかの家の干渉を受けることなく戦国の世を生き延びられました。
景勝の前の上杉家当主は上杉謙信で、彼には景勝のほかに上杉景虎という息子がいました。
どちらが後継者か決めないまま謙信は急死してしまったため、景勝と景虎は次の上杉家当主の座をめぐって戦うことになります。
これが御館の乱の始まりです。
5歳ごろから景勝に仕えている兼続はもちろん彼の味方をしました。
理由はほかにもあります。
謙信は妻を持たなかったので、景勝も景虎も養子でした。
景勝は、謙信の姉・仙桃院(せんとういん)の息子。
いっぽう景虎は、上杉家が同盟を結んでいた北条家の出身。
景虎が跡を継いだら上杉家が北条家に乗っ取られるおそれがあるわけですね。
兼続は冷静に上杉家の未来を考えて、謙信の家系の血を引く景勝を後継者に推しました。
謙信が亡くなると兼続は上杉家の本拠地・春日山城の本丸に景勝を招き、家臣たちに跡継ぎは景勝だと思わせました。
そして謙信が残した武器や金銭をいち早くさし押さえ、上杉家の資産を確保します。
後継者争いに勝つための準備を着々と進めていったわけです。
自分の立場があやういと感じた景虎は、甲斐(かい、今の山梨県)の大名・武田勝頼に助けを求めます。
勝頼は当時、姉の黄梅院(おうばいいん)が嫁いだ北条家に協力していました。
すると兼続は勝頼の妹・菊姫を景勝の妻にむかえ、同じように武田家との血縁をつくって対抗。
さらに謙信が残した資産を勝頼にたくさん贈りました。
織田信長に領地をねらわれ資金不足に困っていた勝頼は、景勝に味方することを決めます。
兼続の作戦に追いつめられた景虎は、景勝軍の攻撃を受けるとたまらず春日山城の二の丸から逃亡しました。
そして実家の北条家へ向かう途中で味方の裏切りにあい自害。
こうして景勝は上杉家の当主になり、乱は終結します。
兼続の知恵のおかげで上杉家の存続が守られたわけです。
領地を発展させる
2つめは、領地の米沢(よねざわ、今の山形県)を発展させたことです。
関ヶ原の戦いに負けた上杉家は、家康が開いた江戸幕府にしたがうことになります。
これまで治めていた会津(あいづ、今の福島県)は奪われ、その4分の1しかない米沢のみが領地として残りました。
領地が減ればそれだけ領主側の収入は減るので、養える家臣の数も減らすのが普通です。
しかし兼続は上杉家の家臣を誰ひとり解雇せず、全員が生きていける方法を考えました。
まず手をつけたのは、大勢の家臣が不自由なく生活できるようにするための市街地づくりです。
土地が限られているので身分の上下を問わず同じ大きさの家を建てるよう指示し、みんなが住める町を完成させました。
中心になる米沢城も改修工事をしましたが、シンボルになる天守閣はつくっていません。
実際に作業をする家臣や領民の負担を減らすため、城の設備を最低限にとどめたんです。
また兼続は、城下を流れる川の洪水を防ぐために堤防を築きました。
この堤防は直江石堤と呼ばれ、現在も一部が残っています。
ほかにもギャンブルを禁止する条例を制定したり、農業のテキストを作ったりもしました。
兼続は都市計画・法律・産業などあらゆる面をみながら、米沢を住みやすい土地へと変えていったわけです。
ちなみに景勝の子孫である上杉鷹山は兼続を参考に米沢の政治を行い、のちに名君と呼ばれることになります。
兼続の政策がいかに優れていたかがわかりますね。
兼続は上杉家そして上杉家が治める国のために、知恵を使って尽力しました。
後継者争いに勝利して家の存続を守り、また領地を発展させたのは大きな功績です。
歴史上の敗者ともいわれる上杉家が後世に名前を残し続けられたのは、兼続のおかげといっても過言ではないでしょう。