直江兼続の挑戦状――直江状はまったくの偽物ではない

直江状

武士の身分制度が厳しい戦国時代。
地位の高い相手に無理を言われても逆らうことは許されない時代です。
しかし、直江兼続は違いました。
大きな力を持つ徳川家康に理不尽な命令をされたとき、はっきりと断る手紙を送ったんです。
この手紙は現在、「直江状」と呼ばれています。

この直江状には偽物という説がありますが、実際に存在した可能性は高いです。
直江状にまつわるさまざまなエピソードから真偽を探ってみました。

直江状とは何か

まず、直江状が書かれたいきさつを確認してみます。

1598年、天下人の豊臣秀吉が亡くなりました。
秀吉のあとを継いだのはまだ6歳の豊臣秀頼です。
すると家康は、子どもの秀頼がなにもできないうちに天下を奪おうと考えて動きはじめます。
有力な大名である伊達政宗や福島正則などの子と自分の子や孫を結婚させて、味方に引きこみました。
こうして家康はどんどん発言力を強めて、権力を自分に集中させていきます。

そんななか、越後(えちご、今の新潟県)の大名・堀秀治から家康に「上杉景勝が戦を起こして天下を乱そうとしている」と告げ口がありました。
上杉景勝は兼続の主君で、会津(あいづ、今の福島県)の大名です。
会津と越後は隣り合わせということもあり、景勝と秀治は以前から領地のことでもめていました。
だから秀治は、家康の力を借りて景勝を困らせようとしたのです。
家康もまた、豊臣家の味方をしている景勝を邪魔だと思っていました。
そこで家康は「戦を起こすなど許せない、わしの城へ来て謝れ」と書いた手紙を景勝に送り、おどしたのです。

もちろんこれはただの言いがかりで、景勝に兵を出す気などそもそもありません。
兼続は家康の身勝手な命令に怒り、反論する長い手紙を送りました。
これが直江状です。

直江状のおもな内容は、景勝に戦を起こす気などないという説明です。
そして、その気がないのだから謝る必要もないとしています。
また、告げ口をした秀治だけ信じて、景勝の言い分を聞かないのは不公平だとも書きました。
さらには、天下は秀頼が治めているのに家康のほうが天下人のようにふるまっていると指摘したんです。
時代の権力者に正面から言い返した痛快な手紙といえますね。

直江状が偽物といわれるわけ

そんな直江状が偽物といわれる理由は、大きくわけて3つあります。

1つめは、原本が存在しないという点です。
兼続が書いた直筆の直江状は現在どこにもありません。
これから発見されるかもしれませんが、今に伝わっているのはすべて直江状を見て書き取った「写し」です。
写し元の書状がどんなものかわからない以上、ほかの人が書いた可能性もあるといえます。

2つめは、言葉づかいです。
直江状には、ほかの兼続の書状に見られない言葉づかいがいくつか出てきます。
たとえば普段の兼続なら「申し入る」と書くところが、直江状では「申し宣ぶ」となっているのです。

また「其元(そこもと)」のような、目下に対する言葉を使っているのも不自然だと考えられています 。
実は直江状の直接のあて先は、家康ではなく西笑承兌(さいしょうしょうたい)という相国寺(しょうこくじ)の僧になっています。
承兌が家康にたのまれて上杉家とやりとりしていたためです。
承兌は相国寺の人事を担当した身分の高い僧でした。
この高僧に対して、兼続が目下への言葉を使うのはおかしいというわけですね。

3つめは、人間関係の書き方です。
直江状では、大谷吉継と増田長盛という人物が上杉家に協力しているように書かれています。
しかし直江状が書かれた時点で、上杉家とこのふたりの間にあったのは事務的なやりとりだけです。
ではなぜ、このような書き方になったのでしょうか。
吉継と長盛は関ヶ原の戦いで上杉家と同じく家康と敵対した大名です。
結果的には上杉家と協力しているといえるんですが、直江状が書かれたのは関ヶ原の戦いより前。
つまり関ヶ原の戦いよりあとの時代の人が、当時の人間関係を間違えて書いたと考えられるわけです。

完全な偽物とはいえない

このように見てくると、やはり直江状は偽物のように思えるかもしれません。
しかし、直江状の存在を裏づけるような当時の記録が残っているんです。

直江状が書かれたとされる時期のあと、景勝が家臣へあてた手紙にはこのような内容があります。
「秀治の言い分が正しいかきちんと調べてほしいと家康にたのんでも返事がない。
それなのに無理な日程で謝りに来いというから、もう謝る気も信頼関係をつくる気もないと伝えた」
この内容は直江状と重なっていますね。
兼続は景勝の頭脳役でしたので、景勝の考えを手紙にまとめ家康へ送っていた可能性は高いでしょう。

また承兌は寺の日誌に次のようなことを書き残しています。
「景勝が戦(いくさ)を起こそうとしていると聞いた家康は、戦準備をやめて謝りに来るよう書いた手紙を送った。
その返信として兼続が書いた手紙を読んだ家康は、こんな無礼な手紙ははじめてだと怒った」
兼続と家康のやりとりを手伝った承兌が書いたことですから、これも信ぴょう性が高いといえるでしょう。

こうした2つの記録をあわせて考えてみると、つじつまが合いますね。
兼続が景勝の考えを手紙にして送ったところ家康が怒った…という流れは自然です。
つまり直江状は実際に存在していて、偽物ではないと推測できます。

原本が存在していない以上、直江状と呼ばれる手紙があったといい切れないことは確かです。
言葉づかいや書き方をみても、兼続が書いたものとはいえないかもしれません。
しかし残された記録をふまえてみれば、この手紙の内容はまったくの偽物ではないといえるでしょう。

この記事を書いた人

歴史スター名鑑 編集部

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