直江兼続が兜に「愛」という字をかかげた理由とは?3つの説から探る
「愛」の字があしらわれた兜
戦国武将が使った鎧(よろい)や兜(かぶと)には、個性の豊かなものが多くありました。
そのなかでも、「愛」の一文字をあしらった直江兼続の兜はひときわ目を引きます。
なぜ兼続がこの文字を選んだのかはよくわかっていません。
しかし、有力な説が3つあります。
3つのうち2つの説は、武芸の神様から一文字をもらったという武神説。
残りの1つは、民への愛を示したという愛民説です。
3つの説を詳しくみてみましょう。
「愛」の字をもつ神様
2つの武神説は異なる神様をあげています。
愛宕権現(あたごごんげん)と愛染明王(あいぜんみょうおう)です。
どちらにも「愛」の字が入っていますね。
兼続は兜に愛の字をあしらい、戦いの場で武芸の神様にあやかろうとしたわけです。
愛宕権現は、仏教と日本古来の信仰が混ざって生まれた神様です。
“権現”とは、仏教の神様が日本の神様として現れた姿を指します。
愛宕権現のもとになっているのは「勝軍地蔵」という神様。
勝軍地蔵には、平安時代初期の武士・坂上田村麻呂とともに戦ったという伝説があります。
そのことから愛宕権現は、武芸の神様として信仰を集めていました。
愛染明王は仏教の神様です。
“明王”はすべてのものを仏教に導く役割をもっています。
がんこに仏教を信じない者も連れて来られるほど、明王には強い力があるんです。
そのなかでも愛染明王は、欲を力に変える神様として有名。
どんなことにも打ち勝てる武芸の神様とも解釈できます。
現在の「愛」に近い愛民
最後に3つめの愛民説です。
兼続は庶民が豊かになれば国も豊かになると考えて、庶民のためになる政策を多く行いました。
農業のポイントをまとめた本を書いたり、堤防をつくって洪水を防いだりしています。
そして庶民が平和に暮らせる国をつくるため、数々の戦いも行いました。
民を大切にする気持ちを戦場でも忘れないように、兜に愛の字をあしらったというわけです。
「愛」がポジティブな意味で使われるようになったのは明治時代ごろからといわれています。
戦国時代の愛は、「愛欲」のようにネガティブな印象が強かったようです。
しかし、「慈愛」や「仁愛」という言葉は当時から使われていました。
現在と似た使われ方もしていたんです。
ちなみに兼続が主人公の小説『天地人』では、愛民説が採用されています。
『天地人』は2009年のNHK大河ドラマの原作としても有名ですね。
武神説が有力
3つの説のいずれにも説得力がありますが、現在では愛宕権現説と愛染明王説が有力です。
その理由は、戦上手(いくさじょうず)で知られた上杉謙信との関係にあります。
兼続は5歳ごろに実家を出て、上杉家で育ちました。
そのとき上杉家を率いていたのが謙信でした。
兼続は幼いころから謙信の活躍を近くで見て、とても尊敬していたようです。
謙信は仏教を深く信じていました。
だから兼続も、仏教の神様を兜にかかげたのだと考えられます。
とはいえ、愛宕権現と愛染明王のどちらなのかという決定打はいまだにありません。
謙信は戦いの勝利を愛宕権現にお願いしていたそうです。
また、自身のことを「毘沙門天の生まれ変わり」と周囲に言ってもいました。
毘沙門天は、愛染明王と同じ仏教の武神です。
つまり兼続が謙信の生き方を参考にしていたのなら、どちらを選んでも不思議はないわけです。
愛民説の可能性も少なからずあります。
「慈愛」という言葉は、謙信が示した大将の心得(こころえ)のなかにも登場しているからです。
3つの説はどれも、兼続が「愛」の文字を選んだ理由として納得いくものです。
もしかすると兼続は、武神のご利益と民への思いを一緒に表すため「愛」という文字だけにしたのかもしれませんね。