直江兼続にはどんな子どもがいた?1男2女と養子たちの人生

直江景明

直江兼続には正室・お船の方とのあいだに嫡男・景明(かげあき)、長女・お松、次女・お梅といった3人の子どもがありました。
嫡男とは跡継ぎになる予定の男子のことです。
これら3人のほかに兼続は、上杉家家臣の息子・本庄長房(ほんじょうながふさ)と江戸幕府重臣の息子・本多政重(ほんだまさしげ)を養子にしています。
今回は、兼続の子どもたちがどのような人生を歩んだのかについてご紹介します。

功績を残すも病弱だった景明

嫡男の景明は1594年生まれで、兼続が35歳のときの子どもです。
幼名( = 子どものころの名前)は竹松丸といいます。
元服したときに、兼続の主君・上杉景勝から1文字をもらって景明と名をあらためました。
元服とは現代の成人式のような通過儀礼のことです。
戦国時代の人は15~18歳ごろに元服をし、大人の名前を名乗りました。

景明は1614年の大坂冬の陣に参戦し、鴫野口(しぎのぐち)の戦いで上杉軍の最後尾を守りぬいています。
この功績は江戸幕府将軍・徳川秀忠に評価され、感謝を表す書状が景明あてに送られました。

前途有望な景明でしたが、生まれつき体が弱く目には持病があったそうです。
心配した兼続は、出羽(今の山形県)にある五色(ごしき)温泉を整備して景明の湯治場にします。
五色温泉は当時から健康回復に効くといわれ、現在も山形県の名湯として知られる場所。
しかし兼続の努力は実らず、景明は1615年にわずか22歳で亡くなってしまいました。

若くして世を去ったふたりの娘

兼続のふたり娘、お松やお梅も早い時期に亡くなっています。
次女のお梅が1605年1月に亡くなり、同じ年の8月に長女のお松も亡くなりました。
お梅が生まれた年はよくわかっていませんが、お松は1585年生まれといわれています。
景明と同じく、ふたりとも若い時期に世を去ったということですね。

お松とお梅の経歴には不明点が多くあります。
とくにお梅は名前も推測のものにすぎません。
兄(景明 = 竹松丸)や姉(お松)の名前に松や竹の字が入っているので、次女は梅ではないか……というわけです。
確かなのは、お松が兼続の養子・本多政重の妻になったということ。
お松が政重と結婚したのは1604年で、夫婦としてともに過ごしたのはわずか1年でした。

ふたりが兼続とどんな親子関係だったのかについてもよくわかっていません。
唯一のエピソードは、お松が兼続に代理奉納を任されていたというお話です。
兼続は春日大社に厚い信仰心を寄せていて、お松をつうじて何度も寄付をしていました。
奈良県の春日大社には、その証拠となる釣り灯篭(とうろう)が保存されています。
兼続の大切な神社への奉納を任せられたのですから、お松は娘としてとても信頼されていたと想像できますね。

跡継ぎにはならなかったふたりの養子

景明が生まれるまで、兼続には息子がひとりもいませんでした。
そこで養子として直江家に迎え入れられたのが本庄長房と本多政重です。

長房は上杉家の家臣・本庄繁長( ほんじょうしげなが)の三男として生まれ、1593年に兼続のもとへ来ました。
繁長は上杉謙信の時代から仕えている重臣。
長房はその息子ですから、直江家の跡継ぎに申し分ありませんでした。
しかしその翌年に景明が生まれたので、長房は本庄家に戻されています。
そのあと加賀(今の石川県)の前田家に仕え、江戸時代になってから上杉家に戻って64歳まで生きました。

政重は江戸幕府の重臣・本多正信(ほんだ まさのぶ)の次男。
1604年にお松と結婚して、直江家の婿養子となりました。
景明がいるにも関わらずなぜまた養子を迎えたのかというと、当時の上杉家の事情が関係しています。
上杉家は1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康に敵対して敗れていたため、江戸幕府のもとで微妙な立ち位置でした。
そこで兼続は上杉家と徳川政権の仲を取り持とうと考え、上杉家重臣の直江家と江戸幕府重臣の本多家を結びつけるべく、政重を養子にもらったというわけです。
しかし政重は1611年に養子縁組を解消します。
この年に景明が結婚したのを見届けると、直江家は景明に任せたいと言って跡継ぎの座を返したのでした。
そのあとは長房と同じく加賀の前田家に仕え、68歳まで生きています。

兼続は実の子ども全員に先立たれてしまいました。
そして養子もみんな家を出ていってしまっています。
兼続は知将といわれるなど才能に恵まれた人物でしたが、子どもには恵まれなかったといえそうです。

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歴史スター名鑑 編集部

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