吉田茂と白洲次郎は親しかった?ふたりの関係性とは
吉田茂と白洲次郎
時の総理大臣であった吉田茂。
その側近を務めていたのが「白洲次郎」です。
ふたりには24歳もの年齢差がありましたが、不思議とウマがあったようで、強い信頼関係を築いていました。
吉田茂と性格がそっくり
白洲次郎は裕福な家の生まれで、17歳のころイギリスのケンブリッジ大学に留学しています。
9年におよぶ留学生活を送り、流暢に英語を使いこなしました。
留学から帰国した白洲は、伯爵令嬢だった樺山正子と結婚します。
正子の父親と、吉田茂の義父(=妻の父親)が懇意にしていたことから、吉田と白洲は顔をあわせる機会を得たのです。
白洲は幼いころから血気盛んで、頑固さや率直な物言いが目立ちました。
この豪胆さはときに「傲慢」「傍若無人」と揶揄されていたといいます。
こうした性格は吉田にも共通するものでした。
彼もまた頑固であり、不遜で傲慢だと評されることが多かったのです。
ともに歯に衣を着せず発言するふたりだからこそ、お互いを気に入りあい、親交を深めたのでしょうね。
異国の大使館で親交を深める
1936年、吉田茂は駐英大使としてロンドンに渡っています。
いっぽう白洲次郎はこのとき貿易会社の重役を務めており、世界各国を飛び回っていました。
やがて白洲はロンドンを訪れるたびに、吉田のいる日本大使館を宿にするようになります。
これはもともと吉田と仲が良かったためとも、何度も大使館に泊まるうちに親しくなったのだともいわれてるようです。
どちらにせよ、ふたりの関係が良好だったのは間違いありません。
彼らは時おり、大使館地下にある部屋でビリヤードに興じました。
これだけでも十分仲は良さそうですが、室内からは「このバカ野郎!」「コンチクショウ!」といった言葉が漏れ聞こえていたそうです。
周りの人々は、ケンカをしているのか?仲違いしているのか?と心配したといいます。
しかし吉田と白洲の仲がこじれた様子はなく、もともと言葉遣いの荒いふたりは親しかったからこそ、ともに飾らない言葉を投げかけ合っていたのでしょう。
吉田茂の娘の仲人に
吉田茂は白洲次郎と親しくしていましたが、吉田の妻である雪子も彼を気に入っていたようです。
その証拠に白洲は、吉田茂夫妻の娘・和子の結婚相手を紹介して欲しいと雪子から依頼されていました。
吉田には5人の子供がいて、なかでも一番愛情を注いでいたのが末っ子の和子だったといわれています。
直接依頼をしたのが妻とはいえ、吉田はかわいい娘の伴侶探しを白洲次郎にまかせたわけです。
吉田は白洲と親しかっただけではなく、強い信頼を抱いていたことがうかがえますね。
白洲は「麻生太賀吉」という男性を紹介し、和子は実際に結婚に至っています。
ちなみに麻生太賀吉・和子夫妻のあいだに生まれた吉田茂の孫が、のちに総理大臣に就任する麻生太郎です。
ふたつの重役をまかされる
第二次世界大戦後、敗戦国として日本がGHQに支配されるなか、吉田茂は外務大臣の座につきました。
この際に吉田は、終戦連絡事務局の参与(のちに次長)に就任するよう、白洲次郎に頼み込んでいます。
つまり白洲をGHQとの交渉役に抜擢したわけです。
白洲は当時、農業に従事していました。
にも関わらず吉田は政治家でない白洲を重要なポストにつかせたのですから、それだけ期待と信頼があったのでしょう。
白洲は流暢な英語と物怖じしない態度で、GHQとの交渉に臨みました。
ときには最高司令官であるマッカーサーを怒鳴りつけることもあり、マッカーサー本人から「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたほどです。
その後6年にわたるGHQの占領のさなか、日本はアメリカと講和を結び国の主権を復活させる手はずを整えました。
サンフランシスコでの講和会議では、総理大臣に就任していた吉田の側近(全権団顧問)として白洲もともに渡米しています。
講和会議では吉田が英語でスピーチをする予定でしたが、なんと白洲はそれを止めたのです。
「講和会議では戦勝国であるアメリカも敗戦国である日本も同じ立場であるはず。それなのになぜアメリカ側の言葉でスピーチを行うのか?」と怒り、吉田に進言しました。
吉田は白洲の言葉を受け入れ、スピーチ原稿は急きょ日本語へと書き換えられることになります。
側近であるとはいえ、講和会議という重要な局面で、総理大臣に真っ向から進言できる人は少ないはずです。
吉田と白洲が親しく心を許しあっていたからこそ、はっきりと意見を伝えることができたのでしょう。
GHQとの交渉人や娘の仲人など、公私ともに重要な役割を白洲次郎に任せた吉田茂は彼を強く信頼していたと考えられます。
そして数々の大きな頼みを聞き入れ尽力していた白洲次郎もまた、吉田茂を慕っていたに違いありません。